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コンホバル (タイグ・モアの子) : ミニ英和和英辞書
コンホバル (タイグ・モアの子)[こ, ね]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

コンホバル (タイグ・モアの子) : ウィキペディア日本語版
コンホバル (タイグ・モアの子)[こ, ね]

タイグ・モアの子コンホバル (Conchobar mac Taidg Mór、882年没)はコノート王(:en:King of Connacht)。
彼はコノート王族(:en:Connachta)の分家ウィ・ブルーイン(:en:Uí Briúin)の氏族:en:Síol Muireadaigh出身であり、祖父はやはりコノート王だったMuirgius(:en:Muirgius mac Tommaltaig、815年没)である。〔Francis J. Byrne, ''Irish Kings and High-Kings'', Table 20.〕
父タイグ・モア(Tadg Mór、810年没)は、祖父Muirgiusとコノートの少数部族たちとの戦いの中で戦死している〔''Annals of Ulster'', AU 810.3.〕。
コノート地方のオコンホバル(Ó Conchobhair、オコーナー)氏族は彼の名によるものである。
==生涯==
彼が王位にあった正確な年は定かでない。''レンスターの書''(:en:Book of Leinster)の王者の一覧によると彼の支配は27年間であり、おおよそ855年から882年までと推定される〔''Book of Leinster: Ríg Connacht''〕 。
なお、共同統治者であるモール・コハドの子マグロン(Mugron mac Máele Cothaid)の死は872年とされている〔''Annals of Ulster'' AU 872.9.〕。
コノートはこの期間、アイルランド上王(:en:High King of Ireland)の支配下となった。860年にコノートの男たちは、コールマン氏族(:en:Clann Cholmáin)出身の上王モール・セックネール(:en:Máel Sechnaill mac Máele Ruanaid、862年没)による北のウィ・ニール(:en:Ui Neill)への遠征に参加した。彼らはアーマー近くのMag Dumaiでの野営中に襲撃を受けて停止して撃退し、遠征は引き分けに終わった〔''Annals of Ulster'', AU 860.1.〕。
863年、ウィ・ニールの分家ケネル・エオガン(:en:Cenél nEógain)から出た新しい上王エイ・フィンズリアス(:en:Áed Findliath、879年没)が、自らの権威を課すためコノートへの遠征を行った〔''Chronicum Scotorum'', CS 863.〕。
868年、コンホバルはCell Ua nDaigriの戦い(Battle of Cell Ua nDaigri)において、上王エイ・フィンズリアスの味方としてダブリン北部ブレガの王(:en:King of Brega)ゴナイングの子フラン(Flann mac Conaing、868年没)およびそのヴァイキング同盟軍と戦い、数では圧倒されながらも勝利を収めた〔'' Annals of Ulster'', AU 868.4; ''Chronicum Scotorum, CS 868.〕。
一説では、コンホバルの配下の王である、ウィ・ブルーイン・ナ・シンナ(Ui Briuin Na Sinna)の領主マナハン(Mannachan)がフランを殺害したと言われている〔''Annals of the Four Masters'', M866.9〕。
"マナハンによる偉大な勝利、すさまじい武勇の英雄、ゴナイングの子の首を手に持ち、Tadhgの息子の顔より前に晒し"

''アイルランドの年代記断章''(:en:Fragmentary Annals of Ireland)は、867年にノース人が本拠地のリムリックへ向かう途上にコノート地方を通過して襲撃してきたが待ち伏せしていたコノートの男たちに敗北したと記録している〔''Fragmentary Annals of Ireland'', FA 866.〕。
873年にコノート地方は、マンスター王(:en:King of Munster)ダナハ(Dúnchad mac Duib-dá-Bairenn、888年没)とレンスター・マンスターの境界に位置するオスリゲの王(:en:king of Osraige)ケルバル(:en:Cerball mac Dúnlainge、888年没)の攻撃を受けた〔''Chronicum Scotorum, CS 873.〕。
コノートの継承者、キナエダ(Cinaed)の子アバン(Abán)は、867年にウィ・マイン(:en: Uí Maine)王ディアルマイトの子Sochlachán(:en: Sochlachan mac Diarmata)の手によって焼死した。また、872年に相続人であり共同統治者であったマグロンが没した〔''Annals of Ulster'' AU 867.5.〕。
コンホバル自身は、年代記によれば老年まで生き882年に亡くなった〔''Annals of Ulster'' AU 882.7.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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